学校って、勉強する場所であると同時に、人との関わり方を覚える場所でもあるんだろうなと思う。
最近、学校で注意されたことを受け止めないまま大人になると、社会人になってから結構苦労するんじゃないか、と考えた。
注意のされ方と、注意の内容は別の話
例えば、同級生から何かを注意されたとする。
その言い方がきつかったり、ひどかったりしたら、素直に聞く気になれないのも分かる。相手の態度が悪ければ、なおさら。
ただ、注意のされ方が悪いことと、注意の内容まで間違っていることは別なんだよね。
言い方がひどかったとしても、指摘された行動には直した方がいい部分があるかもしれない。
もちろん、本当にいじめや人格攻撃だったなら、それを我慢して受け入れる必要はない。ひどい言い方をした側にも問題はある。
でも、「あの人の注意の仕方はひどかった。だから言われたことは全部無視していい」としてしまうと、自分の行動を振り返る機会まで失ってしまう。
この二つを切り分けるのって、案外大事なのかもしれない。
先生からは「問題のない生徒」に見えることもある
もう一つ難しいのは、同級生との関係と、先生から見える姿が必ずしも同じではないこと。
同級生には反発していても、先生の前では礼儀正しく振る舞う。勉強もそこそこできていれば、先生からは特に問題のない生徒に見えるかもしれない。
先生が教室で起きていることを全部把握するのは難しいし、成績が良いからといって必ず注意されないわけでもない。
それでも、周りとの摩擦が見過ごされた結果、本人が自分の振る舞いを見直す機会を持てないことはありそう。
勉強ができることと、人間関係がうまくいくことは、また別なんだと思う。
「いい人になる」のと「いい人を演じる」のは違う
社会人になると、上司や同僚、後輩、取引先など、いろいろな人と継続的に関わることになる。
学生の頃よりも、相手に合わせて振る舞う場面は増える。
もちろん、誰でも多少は本音を抑えるし、仕事中にいつも素の自分でいられるわけではない。
ただ、相手を尊重する考え方が自分の中にあることと、その場だけ尊重しているように見せることには違いがある気がする。
本当は納得していないけど反省したふりをする。相手に関心がないけど、関心があるように接する。毎回、どう振る舞えば「普通のいい人」に見えるのかを考える。
これをずっと続けるのは、かなり疲れそう。
自然にできることを、毎回意識して演じなきゃいけないわけだから。
叱られなかったことは、幸運だったのか
子どもの頃は、注意されたり叱られたりするのって嫌なものだと思う。
でも、自分の行動が周りにどう見えているかを知って、必要なら直す。その経験自体には意味があるんじゃないかな。
もちろん、理不尽に叱られれば成長するという話ではないし、学校でつらい思いをした人に我慢を勧めたいわけでもない。そもそも、学校に通っていたかどうかだけで決まる話でもないと思う。
大事なのは、他人からの指摘を全部受け入れることではなく、嫌な言われ方をしたときでも、受け取るべき内容があるかを自分で考えられることなんだろうな。
そして、それは大人になってからでも少しずつ身につけられるはず。
学生時代にあまり叱られずに済んだ人が、必ずしも得をしているとは限らない。
そのときは楽でも、後になって、人との関わり方を覚えるためにずっと大きなエネルギーを使うことになるかもしれない。
そんなことを、ふと思った。